えー。ちょっと浜松に行ってきます。ので、ちょっと更新停滞します。
まあ、停滞してるのはしょっちゅうなのですが。
なんかいい土産話でも期待しててください。
コメント欄はそのまま開けておきますので、適当にやってて下さい。
もしかするとスパムが溜まったりするかもしれませんが、まあスルーの方向で。
ほんじゃ行ってきます。じゃっ!
合気道=ヤラセ説
shigwさんのご紹介のblogへ行ってきました。
いやあ、やってますな。これはコメント欄の中のひとつの感想です。
合気道の達人、塩田剛三の映像:ひろぶろ
普通に演技だろ
こんなん実戦できたらみんな合気道やるよ
Posted by unk at 2005年04月26日 20:12
ここで紹介されている動画への感想をいろんな人が書いてるんですが、ウソだの演技だのとかまびすしいこと。
まあ、俺に言わせりゃ「強い武術なんてのはなく、強い武術家がいる」ということ以外ないんですが。
「合気道が強い」「柔道が強い」「中国拳法が強い」「サンボが強い」とかなんとか言ったってくだらないですよ。多分、そんなこと言うのは格闘技をやったことが無い人なんじゃないでしょうか。
例えば僕は合気道をやってますが、僕が町でケンカをしてこてんぱんにノされたら、それは「合気道は弱い」ってことになるのか? 違いますよね。そりゃ僕が弱かったってだけですよ……
奥山貴宏氏 死す
小説
死にたくないな。
なんでこう人の死のエントリが続くのか。
奥山氏が死んだ。
実はここ何週間か、奥山氏のblogには行っていなかった。
バイク乗りということでなんとなく共感していて、コメント欄にも何度かコメントしたことがあるのだけど、最近病状が思わしくないらしく、なんだか気が重くて訪れる気にならなかった。
「ツーリングに一緒に行きたい」なんてコメントをしたくせに、どうやらそれがだんだん難しくなって来たのがわかると途端に気後れしてしまったのだ。
僕らはいずれ死んでしまうことに、僕は気づいている。
誰もが無駄な生を生きていて、誰もが意味の無い死を迎えることに気づいている。
しかし、どんなにシニカルな言葉で言い繕っても、少しでも僕に関係した人、猫が失われてしまうと、激しく動揺してしまう。
毎日人は生まれ、毎日人は死んでいく。
僕には沢山の友達がいて、沢山のリスペクトする人がいる。そうした人を失ってしまうのはとても悲しいことだ…
ロック岩崎氏 死す
男の子は大抵飛行機が好きだ。
マニアとは言えないが、僕も人並みに飛行機が好きだ。
浜松に生まれ育った僕は、子供の頃は毎日のように航空自衛隊の訓練を見ていた。父親に飛行場まで離着陸訓練を見につれていってもらったり、そのころはまだ浜松にいたブルーインパルスがアクロバット飛行訓練をしているのを飽きもせず眺めていた。
僕は結婚して子供ができると、コゾウたちを連れて航空ショーに行った。
年に一度行なわれる浜松航空自衛隊の航空ショーは、家族そろって楽しめるイベントだ。
僕が子供の頃夢中になった、子供の科学の付録の紙飛行機を作るブースや、もちろん自衛隊にちなんだオモチャやおみやげもあるし、軽食の出店もある。自衛隊の給食車でおでんや豚汁を食べるのも楽しい。戦車や装甲車や対空砲をは勇ましいし、もちろんお目当ての飛行機のフライトも絶対見逃せない。
ショーが終わっても、皆なかなか帰ろうとしない。ショーの最後に、参加協力している米軍のパイロットが帰り際のサービスで派手な機動をかけたりするのを見逃すまいと狙っているからだ。
僕たちは航空ショーの季節を楽しみにしていた。
もう5年も前になる。初めて僕はロック岩崎のフライトを見た。
それまで名前だけは知っていたし、アクロバットがどんなことをするかは漠然とした知識は持っていた。ロック岩崎はその時もうスーパースターだった。
僕らはアクロバットが始まるのをわくわくして待っていた。
けれど、目の前で繰り広げられるショーは、次元が違っていた。僕らが期待していたものと、一桁も二桁も違っていた。
目の前を飛んでいるのは飛行機ではなかった。飛行機の格好をしたUFOだった。
斜めに傾いだまま飛んだり、垂直上昇したその格好のままエンジンを止めて降りてきたり、炊いたスモークが風に流れて機体を追い越して前に行ったり…それって機体が相対的に後ろに下がってるってことじゃないのか?
僕らは口をあんぐり開けて、興奮しながらそのショーを見ていた。
女房はいつもなら物好きな父ちゃんと子供の世話に付き合ってるという風情なのだが、その彼女さえも「素晴らしいショーだわ!」と感激していた。
僕らは、時々、この時のショーのことを思い出して「また航空ショーに行きたいね」と話した。
僕らにとって「ロック岩崎」は特別なヒーローだった。
…とても、とても残念です。
http://www.airock.co.jp/about/about.htm
今日はこのくらいで勘弁してやる
ちょっとづつ「強者・弱者」については書いています。
書きますよ、って言ったことにプレッシャーが。
だんだん、なんかどうでもいい陳腐でクダラナイことを書き綴っているような気がしてきて気が重い。
で、いつものことですが、こういう時に、これからの予定を書いちゃったり、ここまで書いたとかチョロ出ししたりするとですね、それだけで安心しちゃって次に続かなくなるんですね。
なんで、今はガマンしますです。
受身がヘタの図
で、合気道ですわ。
先週の合気道の練習は用事があって行きませんで、水曜日の佐山さんのドラネコ商会流の方も仕事で行けませんでした。
週末もグダグダに疲れてまして、もう休んじゃおうかなー、とか思っていたのですが、ほんでも間があくと何もかも忘れてしまいますので、老体に鞭打って行って来ました。ケガだけはせんようにのう。ラジオ体操程度にのう。
モタモタグズグスよれよれもきもき、ちょっとづつ体を動かしまして。
ダラダラやってるとせっかくの練習が無駄になるだけですから、やるべきことはやるけど、無理はしないように心がけました。 (あ、なんか、どうでもいいカッコイイまとめ方をしたね今) 汗をかいているうちに、これならなんとかいけそうだ、という雰囲気になりましたんでよかった。
いくつかの基本技はだんだん覚えてきましたので、組み手も他の人に混じってヘタクソながらできるようになってきました。
今回は三か条(手首、肘、二の腕の筋)を極めて投げる技、小手返し(順方向の手首)の投げ技なんかをやりました。
相変わらず、ちっとも強くなったような気はしません。確かに技術は少しづつついてきてはいますが、やっぱり武道として役に立つにはまだまだです。
なんでかって言えば、やっぱり「この手順で相手が動くから、こう動け」という形でしか覚えていないからなんですね。
イザというときに「すいません、右手でこの襟首掴んでいただけませんか」って言っても、相手はやってくれませんからね。
結局、数多くの手順を何べんも練習していくしかないんですね。
そうこうしているうちに、基本動作っていうのが身につくし、その動作がなぜ必要なのかがわかってくる。そして応用ができるようになってくると。
で、極め技、投げ技っていうのは結果でしかないですね。
そこに持っていくプロセスが大事で。つまりは相手をどうやって崩すかだったり、自分の有利な体勢にどうやって誘うかだったり。
極め技、投げ技だけを覚えるのはそれほど難しくない。体も痛くないしね。
でも実際には相手は突っ立っているわけじゃないし、思いもしない格好で攻撃してくるわけですよ。タックルしてきたり抱きついてきたり。
それをどうかわすか、どう力を流すか、どう相手の体勢を崩すかができなくちゃ、とても実際には使えない。
そこんとこが僕はまだまだ全然。
で、練習を繰り返すわけですが。
100回同じ動作を練習してわかんなかったことが、他の練習してみて初めてその意味がわかることもある。その日はぜんぜんできなかったことが、次の週になったら急にできるようになる。
そんなことを繰り返しながら、上達していくんでしょうね。
ただ、だんだん他の人たち、遠慮がなくなってきて、技を極めるにもガッチリ極めてくるんですよねー。
三か条って尋常じゃなく痛いですよ。それにモノスゲ制御され感が強いです。指先もたれて片手で捻られて、相手の言いなりの方向へ体をもっていかれます。
練習だってわかっててもムッカーとする技ですよ…
本日、手首だけでなく、肘まで痛いです。んがんっぐ。
またいいわけ
新しいエントリが書けていませんが。
すまんのうすまんのう。って誰にとも無く謝ってみる。
自分のためのblogのはずなのに、何か義務感が。
ここんとこ年度末の忙しさのせいか、それともこころのポテンシャルの低下か、たいへんに疲れております。
この山を越えたら…と思いつつ、そういや今までいくつも越えたけれど、やっぱり荒涼とした丘陵が続くばかりだったよなあと鬱。
本日、合気道の練習にもいけなかったし。すまんかったのう。>佐山さん
強者・弱者の論理 については、当初思っていたのと全然違う方向に考えが変わってしまった。
自信たっぷりの話だったのが、手探りで確かめながら話を進めなくてはならない。
考えは決まっているものの、それを話としてどうまとめるのか、が難しい…
この山を越えたら、なんとかまとめたいと思うけど。
今日のところはゆっくり風呂に入って、寝ます。
きっと春になって桜を見れば。
きっといいこともあると思います。
強者の論理 弱者の論理 -1-
「強者の論理 弱者の論理」をやるぜ! むーふー!
と息巻いてから、しばらく経ちましたが、すんません。かえってがんじがらめになって考えがまとまりません。
というのも、本当は「ネットを知ってる俺は強者! しかしネットの中には弱者もいる。だから……」
というような筋書きを当初は考えていたのですが、「強者 弱者」のエントリ宣言をしたとたん、いろんなことが立て続けに起こり、自分の考えを改めなくてはならなくなったのでした。
ただ、世界に強者がいて弱者がいて、その立場によって主張が変わる、ってことには変わりは無いんです。
で、じゃあ、今考えている強者の論理、弱者の論理ってなんなんだ、ってことを少しづつ、自分の整理をしながらエントリしていこうと思っています。
今、僕は自分が弱者だと思っています……
言論のリスクと名前
次は「強者の論理 弱者の論理」だー!と予告していましたが、マクラを振っているうちに話が膨らんできました。最近のできごとをきっかけに、まずは弱者とは誰か、何なのかを書いてみます。
僕らは平和の時代に生まれ、民主主義だとか資本主義だとか自由主義だとか、なんだかそんな風に呼ばれている世界に生きていて、ネットというインフラと、webサイトやblogなんていうツールを持ち、ますます世間に自分の言葉を伝えることが容易になってきています。
言葉の重さが変わっていないのだから、ますます僕らは言葉をネットワークに乗せ、人に届けることについて考えなくちゃいけなくなっているようです。
このエントリを書いている最中に「ガ島通信」 のblog主が会社をやめました。
ガ島通信:さよなら新聞 (2005年03月04日)
けっこうショックです。
この人、地方新聞の記者なんですけど、現代の文脈の中でのマスメディアの役割だとか、あるニュースをどんなふうに報道すべきだとか、そういうったことを正直に真摯に誠実に語り続けてきた人なんです。
僕も最近になってガ島通信を知り、楽しみにしていたblogでした。彼の立場を考えるとハラハラしていた部分もあったのですが、今回、会社をやめてしまったとの報を読み、やっぱり、という思いも持っています。
彼みたいに真摯に、誠実に、そして真正面から、自分の仕事とそれを取り巻く環境について語るということは、それだけリスクがあるということなんでしょうか。
彼みたいに自らが求める信条をまっとうするためには、生活の基盤である職までも賭けなくてはならないのでしょうか。
……
うれしいつながり
最近、NWネタが続いております。
ほんで、「次回は『強者の論理 弱者の論理』だー」とか予告までしとりますよ。
バカblogである僕のサイトにあるまじき状況ですだよ。バイクネタとかバカネタをもっと増やしたいと思ってますが…
まあ、予告した手前、いろいろ参考になるように勢い込んでいろんなサイトの様子を見て回ってるんですけど、ますますなんか言いたいこと書きたいこと、新しい知見なんかを仕入れてしまいまして、なかなかまとまりませんです。
もうちょっと自分のオツムを冷やして整理する必要があります。
いろんなサイトを拝見しながら、興味深いサイトのあっちこっちでトラバったりコメント書いたりしているのですが、おかげさまで皆さん、こちらの方にも寄っていただいてうれしく思います。
アリガトー。
で、ですな。もっと嬉しく楽しい場面を見つけましてね。
僕のblog経由で来ました、ってトラバつながりの相手先のblogへコメントつけてる方が。
うわぁあ。 4)トラックバックをかけられると、脳内のどこかがフワッとなる。と「blog依存度チェック」でkobaが言っていますが、なんかそれ以上のインパクトを僕は感じましたよう。
やっぱりね、何度も書くけど、blogっていうのは逐次記録型ネットワーク分散データベースですよ。グリッドコンピューティングですよ。
コメントも含めてコンテンツ。トラックバックも含めてblogネットワークシステムですよ。
今、いろんなblogで問題が出てきて、匿名の問題、トラックバックとコメント、リテラシーの問題、情報の価値、なんかをいろいろ考えさせられています。
あんまりいっぺんにいろいろ考えなくちゃいけないんで、ちっともまとまらないんだけど。
でも、こういうネットワークを構成することができる、というのはとても面白いなあと思うよう。
blogのシステム、blogのツールとしての機能にはそれほど興味はないし、実のところそれほどcoolなものではないと思っているけど、blogの運用の方法っていうのはとってもcoolだと思う。
なんだか、今日はとても感激したので、まずはこのことだけでもエントリしようと思いました。
えー。「杖(じょう)はおもしろい」とか「蒔絵進まず」とかいうエントリもしたいと思ってますがー
そのうち。そのうち。
情報の価値 -Ver.0.7-
前回のエントリ、何を言いたいのかよくわからない、というご指摘がありました。
すまんのう。備忘録で自分勝手なメモを舞い上がって書き込んだもんでのう。
情報リテラシーっていう言葉は20年も前の臨教審で使われた使い古された言葉だ、とも。
ああーううー。すまんのう。備忘録で自分勝手なメモを舞い上がって書き込んだもんでのう。
というわけで、もしかすると、ただ「リテラシー」って言ってしまった方がよさげな感じもする。多分そっちの方が本来の意味に近いかも。
誰か俺の代わりに分かりやすくよさげなテクニカルタームの創造をしちくり。
前回、何を言いたかったかといいますとですな。
・新聞、ラジオ、テレビの情報を鵜呑みにするな。それはメディアの商売/イデオロギーのために偏向した情報だからだ。
・しかしそもそも一次情報を収集するためにはコストが必要だ。
・そのコストを負担するには商売をやってて資本を持っている企業:既存のメディアでないとやっていけない。
・商売を抜きにして根性で情報を得る行為はイデオロギーである。(飛躍?)
・イデオロギーからも商売からも離れて、ただ情報を求めるのは難しい… 今考え中。
・既存のメディアの経済システムのまま、より良い情報を求めるためには受け手の側が賢くなり、判断を的確にできるようになる必要がある。
・しかし、受け手の側の教育・啓蒙こそ、一番コストがかかる代物なんだ… 今考え中。
ということになります。
既存のメディアを変えるのも簡単じゃないし、受け手の方を変えるのもなおさら簡単じゃない、ってことですね。
「NHK、朝日!お前らみんなダメなんだよ!」って言うのは簡単だけど、実運用を考えると代案を提示するのが難しいってことだねえ。
「根性とはイデオロギーである」というのは十分な説明がまだできないけれど、でもなんかこれって多分合ってるぞという電波を受信するぞレティクル座からっ
とりあえずこじつけ<ぉぃ は後にまわして進める。暇と時間のある方は俺の代わりに考えておいてクレ
ここから新しい話。
……