トモヤの話

ガードパイプに衝突、男性死亡 静岡

2010.9.19 02:55

18日午前1時20分ごろ、浜松市南区増楽町の国道257号交差点で、同区若林町、アルバイト、内田智也さん(23)の軽自動車がガードパイプに衝突。内田さんは胸を強く打ち死亡した。事故現場は直線道路で、浜松東署で原因を調べている

引用元: ガードパイプに衝突、男性死亡 静岡 – MSN産経ニュース.

トモヤは俺の息子のヒロの友達で、幼稚園のときから一緒だった。
トモヤのお母さんは俺の中学の2年先輩で、お互いの厨二病の症状を知っている間柄だ。
俺たちは家族ぐるみのつきあいで、川崎に引っ越して10年もたつというのに、俺たちが帰省するたびにトモヤはうちに遊びに来た。
ゴールデンウィークやお盆、年末が近づくと「今度はいつ帰ってくんの?」と電話がかかってきて、もう一人の相棒トシも加わり、ヒロとトモヤとトシのバカ3人で遊びの計画を練るのだ。
遊びって言ったって川で泳ぐだとか、見たところどうでもいいようなダラっとしたイベントか、せいぜいくだらない話を夜通しするとかのもんなんだが。
俺もこいつらのやってることをニヤニヤしながら遠巻きに見てた。
特別な話なんかしなかったが、子供のときに3人をキャンプに連れてったり、大人になってからはヘタクソなマージャンの相手をしてケツの毛を毟ってやったりした。

トモヤは「お母さんに持ってけって言われたから」と、よく手土産を持ってきて、台所で俺や女房を相手に近況を話した。
人懐っこくてお人好しのトモヤは学校を卒業して介護の仕事についた。
けれども世間で言うとおり大変な仕事だったらしく、腰を壊して職を変えた。
その後、居酒屋でバイトをしているとトモヤは言っていたが、最近になって正社員になれるということで志都呂のマンガ喫茶に働きに行っていたんだという。
そのマンガ喫茶で働いた帰り、スズキ自動車の本社の正門前の浜松信用金庫のある交差点で、対向車線側のガードレールに突っ込んで、トモヤは死んでしまった。

後から、その事故を目撃した人の話を人づてに聞いた。 どうやら居眠り運転だったらしい。
バカな話で、シートベルトもしてなかったんだと。
ガードレールにぶつかった衝撃でハンドルに胸を打ちつけて、その衝撃で心臓破裂を起こした。
救急車に乗った時にはまだ生きていて、痛みのあまり救急車の中で暴れたという。
救急病院に着いた時には心肺停止で、蘇生を試みたがどうしようもなかったんだと。

俺たちはトモヤのお悔やみに行ったが、ヒロだけ浜松に残して葬式には出ずに帰ってきた。
俺は女房に「もういいよ。帰ろうぜ」と言った。
トモヤがいなくなってしまった浜松に居たくなかった。
「こんちわー、ヒロいるー?」
「おばさーん、お母さんがコレ持ってけってー」
「バイト先で蕎麦打ったんだけど、オレへただもんで端っこばっかりできちゃってさあ」
トモヤのおっとりした台詞が台所にこだまする。

人というのは、あっというまに死ぬんだな。
あっというまに死ぬ。
何の前触れも無く、遣り残したこととか何の関係もなく無意味に死ぬ。

トモヤは、事故の次の日、水窪の祭に出るつもりだったんだって。
シフトをわざわざ調整して3日間休みをとったって。
トシの嫁さんの実家が水窪で、トシに誘われて去年行ったら、楽しくって今年も行くつもりだったんだって。
バカだなトモヤ、なんだよ友達の嫁さんの実家の祭って。
とんだお邪魔虫じゃないかよ。
お前、可美の祭だって出なかったくせに。
トシとわざわざ揃いの法被まで作って、家紋まで入れたって。
楽しみだったんだろうな。
トシもトシの嫁さんも残念がってるだろうに。

俺は、人間というのは等しく無価値で、等しく無意味に生きていると思っている。
「誰もに価値がある」というのはすなわち「誰もに価値が無い」というのと同じことだ。
価値や意味は限られた環境の中で示されるもので、世界観を広げたらその指標はノイズの中に埋もれてしまう。
…こんな価値観を持ってりゃ出世なんてできっこないな。
「死に顔がきれいだった」だとか「自損事故で、誰も巻き込まなくてよかった」だとか「足を挟まれてたから生きていても大変なことになってただろう」だとか。 そういう感想は、結局生きている人が、自分を納得させるための慰めなんだろう。
俺はそういう感想を持てない。

バカだな、トモヤ。
たかがシートベルトだろうよ。
2秒で済むし、苦でもないだろ。
ほんのちょっとの居眠りとか、ほんとバカだな。
たかがシートベルト、たかが居眠りで死ぬなんて。
ほんとにバカで、ほんとに無意味だろ。

トモヤは死んでしまって、燃やされて灰になって。
もうトモヤと会うことはない。
トモヤはもういない。

年末が淋しいよ。
またバカ3人で年越しするつもりなんだろ。
誰かが欠けるなんて想像してなかった。
今度の帰省は、「トモヤのいない浜松」に帰ることになるんだなあ。
さみしいよ。

11 thoughts on “トモヤの話

  1. 正直なにを書き残せばいいのかわかりませんが、このブログが更新されてない、という言いだしっぺなので、コメントしました。自分も学生時代に友人をひとり交通事故で亡くしていますが、その友人との最後に会った日のこと、夜遅くまでお酒を飲んでいろいろ話したこと、鮮明に覚えています。その友人が亡くなった時は、ある程度、関係に距離が出来ていたので、自分の中でゆっくりと整理する時間がありました。まあ、あとはあまり人には話したくない親族の死がありますが、それは人が死ぬという意味そのものを深く考えさせられるものでした。闇というか今の価値観に深く影響を受けている気がします。

  2. 若いヤツを失う話は堪えますな・・・・
    ましてや一生懸命頑張ってた子だと尚更。
    連れて行くならもっとどうしようも無いヤツを連れて行けよなんて、不謹慎な事を思ってしまったり。

  3. 生きているってことは、生きている人の中に価値があるってことでもあります。
    僕たちは「有限の可能性」の中に生きているから、その中で価値を作るんです。

    僕は皆にずっと長生きして欲しいですよ。

  4. 何て書いていいのか良いのかわかりませんが…。
    「有限の可能性」を
    授業中に一生懸命化粧をしている生徒に
    やる気がなくてぐっすり熟睡している生徒に
    その中でも懸命に頑張っている生徒に
    タイミングを見計らって伝えられるよう考えてみます。底辺校故に希望を失って自暴自棄になってる子は多いので。

  5. 電磁郎さん。「若者の無意味な行動」っていうのも人生のウチなんですよ。
    サボってること、怠けてること、バカげたこともひっくるめて自分の人生なんです。
    ただ、それに気づくまで長生きして欲しいと思います。

  6. 女房が「ヒロの部屋でお線香の臭いがする」って言いましてね。
    「勘違いじゃないよ、2度もしたもん」ですって。
    幽霊でもなんでもいいから挨拶くらいしてけ、バカ。

  7. しかし切ないですね。
    この世のすべては移ろい行き、そして誰でも何時かは死んでいく。

    あたまでは理解しても、現実はそれは辛いものですね。

    ご冥福をお祈りいたします。

  8. 最近、歳のせいか??自分が涙もろくなっているのに気付きます。
    『歳をとると涙もろくなる』と人から聞いてはいましたが本当なんですよね。これが。
    そんな歳まで生きている自分にあらためて気がつかされる瞬間てありますよね。
    早すぎる。
    ご冥福をお祈りいたします。

  9. 何歳で死んでも「早すぎる」なんでしょうねえ。
    10歳でも90歳でも。残された人にとっては「早すぎる」
    なんとも言葉にならないですけどもね。

    それでも、腹が減ったら飯を食うし、眠くなったら寝て、TV番組を見て笑う、そういう日常もまたあって。
    そうやって日々は過ぎていくんですねえ。

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