苦い話が続くけど、すまんね。
こういう苦い話も、生きていればどこかで当たることがある。
不幸なできごとっていうのは誰にでもある話。
僕らはそれがいつか必ず起きるできごとだと「知っている」けど、そういうできごとが起きた時の気持ちの整理の方法なんて、「わかってる」人はあんまりいないみたい。
僕の友達にいくつもの戦場を経験し、何人もの子供の死体を、山ほどの悲劇を見てきたヤツがいるけど、それでもヤツが人の不幸に心をざわつかせずにいられるかっていったら、全然そんなことない。
見なかったことにする、忘れてしまうことにする、っていうのは一番手近な方法だろうけど、それでもやっぱり、そういうのはごまかしてるだけなんだろうな。「受け止めて、わかる」ってわけにはなかなかいかないよ。
こんなとき僕らは宙ぶらりんな苦い感覚を抱えたまま、右往左往するだけだ。
せめて苦い感覚をしっかり抱え込んで忘れないようにすることだけが、僕らに出来る、世界に対する誠意なんじゃないかと思う。 ああー、いや。 放り出して忘れてしまったりしたら、もっと不幸なのかな。
大切なものを失うから、この苦い感覚が生まれるんだから。後に残ったその苦い感覚を放り出してしまったら、僕らが手にしていた大切なもののカケラさえ失ってしまいそうだ。
Amazon.co.jp: 夜と霧 新版: 本: ヴィクトール・E・フランクル,池田 香代子
フランクルの「夜と霧」は読んだ?
アウシュビッツに入れられた、ユダヤ人の医者が書いた手記。
悲惨な状況を、静かな文章で綴ったロングセラー。
フランクルは日々の過酷な体験を淡々と綴っていくのだけど、毎日が死に直面している中でさえ希望やユーモアを忘れず、心理学の医者として他人がどんな行動をとるのかを観察している。
ぜひ読んでおくべき本だよ。
今、手元に無いので記憶で書くけど、こんな場面があった。
栄養失調と強制労働で、毎日数え切れないほどたくさんの囚人たちが死んでいくような中で、一日のノルマを終えてふと外を見やった仲間の一人が、赤く染まった夕焼けを見上げて「ああ、世界は美しい」と呟く。
僕はこれに深い衝撃を受けた。
世界は残酷だ。しかし、同時に美しくもある。
美と残酷さは、相反するものではない。光と影、裏と表ではない。
美も残酷さも全く同時に、ひとつの世界の中に矛盾無く存在する。
それらはマーブルのようにからみあって世界を形づくってるんだよ。
無邪気に遊ぶ子猫たちの明日には、残酷な運命が待っているかもしれない。
しかし、その残酷さと、子猫の愛らしさには、何の関連も無い。
残酷なことが待っているから、それを賭け金にして子猫たちの愛らしさが担保されているわけじゃない。
車に踏み潰され血を流している子猫の30m先では、他の兄弟たちが無心に母猫の乳を吸って喉を鳴らす。
世界は残酷だ。
そして世界は美しい。
世界はそういうふうにできているのだから、僕らはそれを受け入れられないですかね?
残酷さも美しさも、ありのままに受け入れられないですかね?
詳しくは書けないけど、僕の友人に、やはり世界の残酷さに傷ついている人がいますので、僕は心を痛めています。
パンドラの函の中に、最後に残ったものがたったひとつ、希望。
苦さをかみ締めることが、希望かもしれないですね。
相変わらずグダグダで、何を言ってるのかわかんないかもしれないですが。
このままグダグダ続きます。
素敵と思いました。
苦い気持ちを放り投げるのも、受け止めるのもしんどいですね。
受け止めたほうが精神的には救いがありそうですけど、だからと言って残酷さが手加減してくれるわけではないんですね。
苦しいなぁ、しんどいなぁ、って言いながらずーっと続くしんどいことをさばいていくんですね。
やだなぁ。めんどくさいですね。やるしかないぽいですね。
パンドラの箱から最後に飛び出してきた「希望」こそが
一番たちの悪い存在だと何かの本で読みました。
そうであって欲しくはないと思いますが、現実には
そうなのかもなぁ?と思います。
泣いていいですか?