オウムの信者だったという松永さんについていろんな論評が出ているようだ。
僕自身は彼の今までの言動について詳しくないし、直截的に僕の利害に関係したことではないので、深入りはしないつもりだ。
ただ、昔、オウムの信者にほんのわずにか関わった経験があって全くの他人事とは思えないところもあり、また、僕がこれから書こうとしている視点から松永さんについて論評しているのを見ていないので(僕がきちんとフォローしていないだけかもしれない)これから書くことが、もしかして松永さんと彼を取り巻く状況を理解するための補助線となれたらと思っている次第。
結論から先に書いてしまうけれど、松永さんを「元信者≒修行者」と考えるのは変だと思う。
確かに、松永さんは今までオウム信者として登録していたのだろうけれど、修行者だったことはないんじゃないだろうか。
「修行経験者」ではあるかもしれないが、僕の目からは修行者とは言えない。
修行をした、という報告と、修行者的な行動とは別のことだ。
……
はっきり書けば、徹頭徹尾、松永さんは俗人だ。
その意味で、松永さんの行動について、信教の自由であるとか言論の自由であるとかいう切り口で論評されているのを見るのはどうにも気持ちが悪い。
俗人の、俗世の利害によって松永さんは行動しているのだから、俗人の俗世の利害という切り口で論評するのが筋が通っていると思う。
松永さんの過去から現在までのネット活動の中で今まで書いてきたものにざっと目を通してみると、修行者的だなあと思える言動は無い。
もちろん、全てに目を通したわけではないので、見落としもあるかもしれない。
しかし、修行をし続けている人が、松永さんのテキストに時折あらわれるような言動をするのかといえば大いに疑問だ。
例えば、彼の言葉の端々に現れる攻撃性だ。
彼の言葉はしばしば刺激的だ。コメントで否定的な反応があると、必ず報復的な言葉で返す。
瞑想などをしていると、こうした刺激にはひどく敏感になる。
否定的な言葉に心を乱されることは少なくなるのと同時に、攻撃的な刺激の強い言葉を使わなくなるものだ。
わざわざ攻撃的にどこかのサイトや誰かの発言を追いかけたり、自ら報復的な言葉を返すような行動を修行者はしないだろう。
攻撃的な行動が少なくなるので、外向的ではなくなったと周囲から思われることさえある。
わかりやすく的確な言葉を選び、発言するようになる。
必要のない言葉は使わなくなる。
こうした点からも、松永さんの饒舌さは修行者的ではないと思う。
さらに今回、松永さんは全く修行者的ではない行動をした。
アーレフから離れた経緯を極めてナイーブな表現で言葉にしている。
退会届を出さずにアーレフから離れたことを、微妙な言い回しで巧妙に隠蔽している。
彼は教団に未練(!)があったので、退会届を出したくなかったのだ。
決定的な証文を置いていくのを躊躇ったばかりか、退会することを教団の誰かに告げることさえしなかった。いつか帰ってくる時のよすがとするためだ。
教団に未練があり、いつかまた帰りたいと思っていることを書かずに「教団とは意見が違うので離れた」と書いた。世間の人たちに教団とは訣別したとミスリードさせるためだ。
修行者はこのような小ざかしい言葉は使わない。
これは、修行者の言葉ではない。俗世の言葉だ。俗人の行動だ。
僕は松永さんを不思議な人だと思う。
これほどまでに俗人なのに、修行とか宗教、教団といったものに執着している。
さらには「ぁゃιぃわーるど」や「あめぞう」といったコミュニティに執着している。
そしてその執着ゆえに修行者的ではない。
この文章は松永さんを攻撃するためのものではない。
松永さんと言う人物のある側面について書いたものだ。松永さんについての言論に、ある見方を提供しようという試みのひとつだ。
ところで…。
僕はこの松永さんという人物のことを考えていて、ひどく気になることがあった。
オウムはかつて宗教団体であって、原始仏教に基づき修行を実践していて、しかもそのメソッドは一定の成果を出していたと聞いたことがある。
薬物や過呼吸を使った瞑想まがいの意識変容状態は論外としても、真っ当な修行をしていて、正しい指導者がいれば、修行の成果は出るものだ。
修行は、宗教というよりもメソッドだからだ。信仰が無くても修行はできる。
僕も、オウムは実践として修行をしていたという話を疑ってはいなかった。
しかし、修行はしていたのだろうが…オウムは、そしてアーレフは、そうした修行者としての成果があったのだろうか。
身体をコントロールする仕儀は身についたかもしれないが、自らのこころをコントロールする方法は身についたのだろうか。松永さんを見る限り、自らのこころを律する能力が高いとは思えない。
仏教の教えの基本として八正道というものがある。
正見、正語、正業、正命、正精進、正念、正思惟、正定
だそうだ。(詳しくはググって複数の解説を読んでくれ。僕が書くとかえって不正確になりそうだ)
松永さんは正しく八正道に沿った人とは言えないだろう。
それを悪いとは言わない。松永さんが俗世に生きる俗人である限りは。
もし、アーレフでの修行が、松永さんのような人を作ったのであれば。
あるいはアーレフの修行でさえ松永さんの俗垢を変えることができないのであれば。
アーレフは最初から宗教団体ではなく、修行の場としても有効ではないのだろう。
ならば、アーレフは何の団体なのか。
そのアーレフへの帰属意識—執着—を持つ松永さんとはどういう人なのか。
それは考えておくべきだろう。
僕は…
僕は今まで松永さんとそう関わりがあったわけではない。時々検索にひっかかって何度か文章を読んだ程度にしか過ぎない。
だから、正直、彼を良くも悪くも思っていない。
しかし、もし松永さんと関わることになったとき、今後の僕自身の態度を問われるならば。
僕は松永さんを信用しないだろう。
修行者≒宗教者を標榜し、しかも言葉を弄する人を信用するわけにはいかない。
俗人としてならば、興味深い人なのだろうけれど、
そして、だからこそ他の人たちの肯定的な論評があるのだろうけれど。
—- 2006.05.02 追記 —-
松永さんは嘘は書いていない。嘘をつくのには禁忌があるように見える。
それが八正道の正語かといえば、違う。むしろ相反するものだ。
正しい言葉とは、相手に誤った情報を伝えないことでもあるからだ。
嘘をつかないのは、嘘と後でばれた時の打算だろう。
そして、正語に対するエクスキューズなのだ。
また、こうした行動ゆえに、修行者的ではなく、俗世の利害に巧みな人だと僕は思う。
僕のこのエントリ、「修行者的ではない」という言辞が、世間の人にとっていかほどの影響力があるかは、実のところそれほどないのではないかと思う。多分、理解されにくいことだろう。
しかし、多分、松永さんにはわかるだろうし、宗教的な修行をしているようなタイプの人にはわかるだろう。「わかる人にはわかる」という言い方は本意ではないけれど、それは仕方ない。
ただ、オウムには、アーレフには、修行者的ではない人がいた、ということは指摘できる。
つまりは、原始仏教による修行の実践という標榜は、正しい結果をもたらさなかったということだ。それは今現在でもそうだ。
正当性の無い自称宗教集団の存在は何を意味しているのか。「弱体化したテロ組織」以外の何なのか。
そして、その「弱体化したテロ組織」に執着している男に、俗世間側が俗世間の論理で何を言うかは、いわずもがなではないかと思う。
-同日さらに追記-
松永さんのサイト:備忘録ことのはインフォーマル
http://d.hatena.ne.jp/matsunaga へのトラックバックははじかれてるみたい。
あちらのサイトのurlを文中に記述したところトラバできました
このpingを、どこにどう向けて良いのかわからないので、この件について考えるきっかけとなったplummet教祖のところにだけトラックバックしています。
御存知かと思いますが、仏教用語に「貪・瞋・痴」というものがあって、これは「貪り、怒り、愚かさ」という最も根本的な煩悩のことを指しており、総称して「三毒」とも呼ばれます。
私が個人的に最も悩まされており、人からも指摘されるのがこの「瞋り」ってやつで、行をやればやるほど、これが自分の根源に大量に蓄積されていることに気づかされて、時々イヤになってしまいます(^_^;)
瞑想というのは、そうした三毒の煩悩を浄化していくための方法論ですが、潜在的なものを行によって顕在化させていく以上、修行の過程においては、それらの煩悩が、むしろ一般人よりも過剰な状態になってしまうことはあるかも知れません。仏教史においても、龍樹をはじめとする中観系の「空」の思想家たちは、他者への攻撃性が、非常に強い人々が多かった(あんまり、いい死に方してません)。
ただ、そうした煩悩による症状、例えば「怒り」ならば「攻撃性」を、そのまま他者に向けてしまうことは、もちろん忌むべきことでありますから、一般に修行者というのは、出家して俗界との交わりを避ける。
松永さんのことは、私はよく知らないのですけれども、もし彼に nomadさんの言われるような問題があるのだとすれば、それは彼が修行者として未だ完成されていない状態で、中途半端な位置に居るまま俗界で活動している、ということの、結果なのかも知れません。
松永さんが書いてるところによると、オウムの生活の中で、人と交わらぬために按摩やマッサージみたいな人との直接的な接触を避けるってことがあるらしいんですよ。「データの交換を避ける」とかなんとか。
いや、しかしね、按摩やマッサージよりもよっぽどネット活動の方が他人と多くのデータを交換してるんですよね。
場合によってはリアルよりも多くのデータを交換していることもあるでしょう。
松永さんが役割として対外的な窓口とならざるを得なかったのは修行者として不幸なことだったかもしれません。
しかし、それもさお君のように自覚できる問題であったはずですよね。修行者は全ての結果を自らが招いたことだと知るべきでしょう。
こういう言い方は俗世に生きる者に対しては酷薄に聞こえるでしょうけど、修行者に対しては正当な言い分だと思います。