次は「強者の論理 弱者の論理」だー!と予告していましたが、マクラを振っているうちに話が膨らんできました。最近のできごとをきっかけに、まずは弱者とは誰か、何なのかを書いてみます。
僕らは平和の時代に生まれ、民主主義だとか資本主義だとか自由主義だとか、なんだかそんな風に呼ばれている世界に生きていて、ネットというインフラと、webサイトやblogなんていうツールを持ち、ますます世間に自分の言葉を伝えることが容易になってきています。
言葉の重さが変わっていないのだから、ますます僕らは言葉をネットワークに乗せ、人に届けることについて考えなくちゃいけなくなっているようです。
このエントリを書いている最中に「ガ島通信」 のblog主が会社をやめました。
ガ島通信:さよなら新聞 (2005年03月04日)
けっこうショックです。
この人、地方新聞の記者なんですけど、現代の文脈の中でのマスメディアの役割だとか、あるニュースをどんなふうに報道すべきだとか、そういうったことを正直に真摯に誠実に語り続けてきた人なんです。
僕も最近になってガ島通信を知り、楽しみにしていたblogでした。彼の立場を考えるとハラハラしていた部分もあったのですが、今回、会社をやめてしまったとの報を読み、やっぱり、という思いも持っています。
彼みたいに真摯に、誠実に、そして真正面から、自分の仕事とそれを取り巻く環境について語るということは、それだけリスクがあるということなんでしょうか。
彼みたいに自らが求める信条をまっとうするためには、生活の基盤である職までも賭けなくてはならないのでしょうか。
……
確かに、僕らは僕らの言葉に責任を持たなくてはなりません。僕らの言葉には良くも悪くも何かを変える力があります。誰かに何か影響を与える以上、何かを賭けなくちゃいけないわけです。
ただ、賭けなくちゃいけないのはわかりますが、自分の生活だとか人生だとかあるいは生命だとかじゃ重過ぎます。できればうまいこと最近の言葉で言うところのセーフティネットが欲しいじゃん。それが民主主義・自由主義じゃねーの? と思います。
そうでなくちゃ、僕らは生活を、世間を変えるために、何かいいアイディア(と自分では思えるもの)を発信しようと思ったとき、常に匕首を懐にして世間に対峙しなくちゃいけなくなる。
そんな覚悟を持ってモノ言うのは普通の人はできやしない。
ってことは、誰からも影響を受けることが無い権力者か、あるいは全てを捨てた革命家しかモノ言うことができなくなっちゃう。
そりゃあ暗黒時代の物語じゃねえのかよ。今の時代、言論に使うものはテメエの知恵と自尊心で十分じゃないのかよ。
こういう現象を見ていると僕らは社会の中では徹底的に弱者なのではないかと思います。
それは僕が予想していたネットワーク社会からは、だいぶ離れた絵柄です。
僕たちはネットという言葉を伝える道具を手にし、力をつけたために、本当の暴力装置から目をつけられたみたいに思えます。
野の雉が一声高く鳴いたがゆえに狩られてしまうみたいに。
僕はこのblogをnomadというハンドルで書いています。
僕はこのハンドルを匿名のつもりでは使っていませんが、それでも何かあった時のセーフティネットという意識はあります。
例えば、もし僕が今勤めている会社を実名で告発するようなエントリをしたら、やはり社内的な制裁は受けるだろうと思います。公には制裁しないと言われても、そりゃそれを本気で受け取るほど子供じゃありません。
特別成績に差がなければ、人事でどちらを取るかという場面になれば、物議をかもした人物を選んだりすることは、どんな社会に行ったってありえませんよ。
木村剛はこんなことを言っています。
週刊!木村剛:モノ書きの老婆心:「匿名性」を護るために (2004.05.13)
いずれにしても、現時点におけるネット上の「言論の自由」というものは、ここまで述べてきた「訴えられるリスク」というものを、ある意味で、ひろゆき氏が象徴的に「2ちゃんねる」の管理人として一手に引き受けているからかろうじて護られているのだという現状をきちんと認識することが必要であろうと思います。
その、ひろゆき氏が必死で護っている「2ちゃんねる」という枠組みの中で、匿名性というセーフティネットに包まれているから、「2ちゃんねる」のユーザーは言論の自由(誹謗中傷や罵詈雑言を含む)を謳歌できるわけです。私自身は「2ちゃんねる」をあまり好きではありませんが、そういう意味での「2ちゃんねる」の重要性については強く認識しています。
僕は木村剛のこのエントリは最近知ったのだけど、なるほど、よく書かれていると思います。
木村剛が言うように、たとえ僕が自分の会社のことを書いていなくても「あんたのとこの社員は過激派のようだね」とでも苦情の電話をかけられたら、僕の立場に良い影響を与えるとは思えません。
(しまった。これで僕が共産党の職員ではないことがバレてしまった!)
僕だけでなく、これって日本中のほとんどの人に当てはまりますよね。圧力をかけられてヘッチャラって人はIT弁護士とか大物政治家、資産家くらいの権力者しかいなくなってしまうでしょう。
多分、いろんなところで同じような内容のことは書かれているだろうし、匿名のことについてはパソコン通信の時代から語られ続けてきたわけなんで、今さら僕が書かなくてもいいかもしれないんですが。
匿名っていうのが無責任な言質を暴走させると言いますが、それは一面的すぎると思います。
あまり見かけないのであえて書いておきますが、匿名がいいとか悪いとかいう以前に、実名なり同一性なりというものを、皆さんあまりにナイーブに、直線的に捉えすぎてやしませんかね?
僕はnomadというハンドルを使い続けているけれど、僕のハンドルは15年以上になるし、実際僕の友達は僕をこう呼びます。もちろん会社では本名を使うし、家庭では「お父さん」と呼ばれてる。
こんなふうに「名前」というのはいろいろなシチュエーションで求められる同一性の根拠の強度が変わりうるものだと思います。
いや、強度だけでなく、質も変ってきます。
そういえば僕の友達のイカロスというハンドルを持つ奴は奥さんからもイカさんと呼ばれてますが、僕らからすれば彼の立場や背景を反映した、僕らにとっての、そして彼の奥さんにとっての正しい名前なんです。
(三平師匠風に解説すると、本来イカロスというカッコイイ名前が、奥さんにイカと呼ばれているところに風情が)
つまり、日常生活においてさえ、常に実名でなければならぬってことは必ずしも無いんですよ。
言論の中でも、その言論が求める文脈の中で、表明しなくてはならぬ名前というのも変ってくるんです。
たとえばある場面では匿名でもかまわない。匿名でなければならぬ場合もある。
あるいは宣誓と戸籍と生体認証を求められる場合もある。
僕らは日常生活の中で、一歩家から出れば「常に」殴られたり騙されたり罵倒されたりする可能性を持っているわけです。
だからって誰もが「常に」自分の住所氏名を周りの人に良く見えるように大きな名札をブラ下げて歩いているべきだ、なんて世界は間違っています。
僕らはゆるやかな「名前のスペクトラム」の中で文脈に応じた名前を使っていけばいいんじゃないですかね。
それが、僕らに許された自由とか民主主義とかそんなものの象徴なんじゃないでしょうか。
それが、僕ら弱者に許された社会制度じゃないでしょうか。
nomadさん。こんばんは~。
トラックバック、どうもありがとうございます。
匿名の問題については、僕も以前考えたことがあるので、少し古いですがそちらの記事をお礼に似トラックバックさせていただきました。
僕は、以前は匿名というだけで大嫌いだったのですが、今では考えがだいぶ変化して、漫画家や小説家のペンネームに準じて考えていいんじゃないかと思っております。
ただ、見ず知らずの人から匿名で誹謗中傷受けても、別に何とも思わないのですが、あきらかに知り合いと思われる人物から、匿名で中傷されると、むちゃくちゃむかつきますね。
実際おれと会ったときに、何食わぬ顔して平然と接していると思うと、まじではらわたが煮えくりかえります。
だから、逆に僕はそういうことをしないように心がけています。
もっとも、僕が「はむはむ」と名乗っていることは、友人や知り合いはほぼ全員知っているんですけどね(笑)。
nomadさんはじめまして。
私もブログを始めるにあたって、所属を明かしてしまった者です。
社内の者はみな私が誰だか知っています。
ですが、やはり私はコーポレートブログをやってる訳ではないので猫手企画@新聞屋でいこうと思っています。
新聞も作ってるらしい猫手さん(仮名)と佐賀新聞の○○(32)では相手の意識の度合いは雲泥の差です。
その場に応じた顔を作ること、それはnomadさんの言う通り私の民主主義ですね。
うわ。いらっしゃいアンドはじめまして。
どうぞよろしくお願いします。
僕らは役割に応じて使う名前を変えますよね。
nomadはネットの中で。本名はあらたまった場所で。「お父さん」は家族の中で。
役割が違えば意識が変わるのは当然です。
それをひとくくりに「実名」で固定されるのはイヤなこった、ですよ。
猫手企画@新聞屋さんのblogも拝見しました。
なんかまったりしてていい感じのblogですね。
またよろしくお願いします。
TBSの「小沢正一の小沢正一的こころ」ってまだやってるのね。
最近、ラジオって聞かなくなっちゃいましたが。風の噂に聞きました。むやみに元気が出たもんです。・・・昔は。