表現に技術は必要だよ。
それには全く異論が無い。
目的に応じた技術は常に必要だ。家を建てるのには大工の技術が必要だし、小説を書くには作家の技術が必要だ。能の演者は修行を積まなくては舞台に立てない。
問題は、その技術を何のために使うのかを見失ってはならない、ってことだよ。
作家が欲する目的に必要であれば、相手の理解を拒絶する表現も手段の一つとして使うべきだろうってことだな。
作家の志がどんなに高くても、どんな斬新なアイデアを持っていたにしても、技術が伴わなければそれを活かすことはできない。どんな高尚な思想を持った大工でも、技術が伴わなければ、その大工の建てた家は雨漏りがする。その家は建てた大工でさえ住みたがらないだろう。
家を建てようという目的があるのならば、構造を理解し、精緻な技術で建物を建てる必要がある……。
しかし、大工が「雨漏りのように見えるオブジェ」を彩りとして取り入れたいと思って設計した家もあるかもしれない。他者には同じように見えたとしても、大工はいかに自然の雨漏りのように擬せられるかに技術の粋を集めて腐心したとしたら。あるいは家などはその雨漏りを見せるための付属物だと大工が思っていたとしたら。彼の目的は達せられている。それが自己満足(…「自己満足」って、自己責任と同じ重複表現なんだな)かどうかなんてそれは問題じゃない。彼自身が求めていたものを達成できたかどうかなんだ。
目的を達成するために技術があるんだ。
でもなあ。「誰に向かって書いているのか」という問いはあんまり意味を持たないんじゃないかなあ。
「自分です」「大衆です」「彼女です」「ほとばしるパトスが自動筆記せしむるのです」
どんな答えが返ってきたって、自分の興味を満足させる以上の結果はもたらさないだろ。よしんばその答えのおかげで、ある程度理解させるための手助けにはなったとしても、その作品を「おもしろい」と転換させるものにはならないだろ。
おもしろい、おもしろくない、は読者の手に委ねられてる。
書いちゃった以上は批判も甘んじて受けなくてはならない。
そういうもんだとは思うけど、「おもしろ:い/くない」と決めた側にも「自分にとって」という冠詞つきであることに気をつけたほうがいい。
それを決めた時点で、それは評価という読者の側の表現だからね。
「おもしろ:い/くない」をただ口にするだけじゃあ、それもひとりよがりの批判かもしれないわけだし。
ひとりよがりを避けるためには批評という手段をとらなくてはならないだろうけど、これはこれで、難しいもんだよねえ。
批評っつうのは作品をスパッと切って、作品だけではわからなかった視点に連れて行ってくれて、隠れていた作品の意味を掘り起こす作業だからね。そうでなくっちゃオラァ批評なんて浜名大橋から太平洋に放り投げちまうね。