jinkiが言う「物語に整合性が無いと伝えたいことも伝わらなくなってしまう」問題について考えていました。
問題について考えてたってよりも、どう言葉にまとめたらいいのかを考えてたのだけど。
僕の中ではこの問題については決着がついていて、一番の読者は自分自身。ということと、そのバリエーション。
先週、僕は国立能楽堂で能を見ていた。見ていたって言うとおじゃうひんざんすな雅な趣味に聞こえるが、実際は苦痛でぐうぐう寝ていたのだった。
僕の友人の中では珍しい、上品な趣味の年上の友人であるIさんが割安のチケットをまわしてくれるおかげで、文化っちゅうもんの末席に座ることができるんだ……。
多分招待席にはモノホンのお上品ざますな方々もいて、百姓の僕としてはちょっと違う世界を覗く違和感もあったり。
まあ、能は何度か見ていて、少しは能の見方っていうのもわかってきた…ような気でいたのだけど、先週の観劇は、勝ち負けで言えば負けだった。
寝ながら僕は考えていた。
この睡魔は、瞑想の初期段階にとっても良く似ている。以前瞑想をしたとき、初期段階では大変な苦痛と疲れを伴い、猛烈な睡魔に襲われたのだった。(多分個人差があるだろうから一般化はできないだろうが) 睡魔が通り過ぎると妄想に襲われたが、その話はまたいつか。
僕は、能というのは舞台の役者の演技を見るのではなく、観劇者が演技の刺激によって、劇を自らの体内で再構成するものではないかと思っている。
瞑想の状態で、自分を観察できている時には、実際、能はとてもおもしろい。情緒たっぷりで、音楽も緊迫感があり一挙手一投足に心のゆらぎを感じることができる。
人の心を写し取る劇として十分で、おおげさな表現に驚かされることも騙されることも無く、心に沁みる。
ところが、観劇者の方に準備ができていないと、能は苦痛でしかなくなってしまう。
僕たちが帰る電車の中で、偶然、同じ能を見てきた人の話が聞こえてきた。
「私、ぐうぐう寝ちゃったんだけどね」「あら、私もよ」「前の人、鼾かいてたわよね」「あんなじゃねえ」「でも久しぶりにいい舞台で緊張したわ」「緊張して見るってことがいいのよね」
ぐうぐう寝てて緊張もいい舞台も無いもんだが、僕もそんなこと言う資格はないわけで。
もし「劇を体内で再構成する」というのが一足飛びの推論だったにしても、能というのは、観劇者に緊張や準備を強いるものであるのはわかって貰えるだろう。
「読者は誰か–自分自身である」
作品を書いている間は仮想読者は自分自身であるわけだし。
特定の誰かに向けての作品であったとしても、その特定の誰かがどう感じるかを作者が想像しながら書いているのであって、作者本人が読者であることは変わりない。
仮想読者の対象を広げていけば通俗小説になっていき、作者の意思など関係なくなってしまう。
さて、実のところ、僕たちは整合性についてあまり興味を持っていないんじゃないかと思う。
そうでなけりゃ、現実がこんなに不合理なわけが無い。僕たちは目の前の情緒にだけ反応して、世界がどうなっているのか、一昨日言った言葉が、今どう実行されているのかには反応が鈍い。
興味を持っているのはその場の雰囲気だけなんだ。記憶なんてからきしなんだ。
僕は物語には整合性を司る「ストーリー」と、その場の情緒を表現する「ドラマ」の2つの要素があるんだろうと思う。
で、実はストーリーというのは近代的なものなんだろうと思っている。
歌舞伎にも能にもドラマは大いにあるが、近代的な僕らの視点からすると、ストーリーなんて滅茶苦茶だからだ。それでも僕らは大いにその劇を楽しんでいる。
だから、僕は作品にはドラマの手法さえしっかりしていればストーリーは不要だと思っている。
もっとも、作者こそが読者、という点からすれば作者がストーリーを求めているのならばその限りじゃない。
本当に自分以外の読者に対して忠実に作品が書けるか、というと、そんなことは無いと思う。
そうでなかったら、作者なんていらないからね。作者の裡なる欲求が作品を書かせてるんだろうからね。
僕ら観劇者は、準備をして、作品に取り組んでもいいんだろうと思うよ。それを作品が求めるならば。
あいやー。
そりゃそーなんだけども、一方で「伝える手法」っていうのがあると思うんだ。能のことはよくわかないのでなんともいえないけれど、見る、あるいは、読む側に高度な解釈能力を要求するものってのはさ、演じる、あるいは、書く側が自分という演者や作者の自己満足でいい、というならそりゃ違うんじゃないのかなぁ。
乱暴な言い方をすれば能は、「それがおもしろい」という文化の共通認識があるから面白いのであって、そういう文化が縁遠くなってしまった人には面白くない、と思う。あるいは、そういう日本の文化の再発見(個人にとっては発見の場合も多々あるような)…これが解釈の重荷なのかもしれん…が伴っているからおもしろいんじゃないかな、と思うし、それはそれでいい。
小説で今までの形を打ち破って新しい「伝える手法」を見出すのもいいと思う。でも、当然、そういうやり方にはリスクが伴うし、世の小説家志望の人々が多分たくさんやっているし、何がしかで成功して作家になった人もいると思う。でも、大方は大失敗していると思う。そんなのがインターネット上にわんさかある。それはさ、逆説的に小説という文化の「伝える手法」という定式が出来ているからに他ならないじゃないかな。
それがいいとか悪いとかは、私にもわからないし、結果的に現状の「伝える手法」を自分自身がぶっ壊すしか表現しえない場合もあるかもしらんが、そんでも、じゃあ現状の「伝える手法」のぶっ壊さなければならない何かを明確にするために、私ならばまず今の小説の書き方文化を無視はできんのね。
勘違いだな、と私が思うにはさ、そういう現状の小説の「伝える手法」ってのをはなっから無視して書いているものを読んだ時なんだ。なぜって現状の小説の「伝える手法」って、かなり物凄い制約があってその枠に何とか押し込んで書き切るってのは大変なんだよね、知っていると思うけどさ。それがぽっと出でそんな周到に面倒なことを組み立てられるかっていう感じに書き飛ばしたものを読むとやっぱりおもしろくなくてひとりよがりだったりするのが大半で、そんなわけで「おもしろくなーい」となっちゃう。
無論、最後に「おもしろーい」となればそれは大成功なんだろうけどさ、個人的にはそういうのになかなか出会えない。
そう、最後にはおもしろいか、おもしろくないか、なんだよね。
だもんで、私の場合、そういう背景から他人の小説を読んでいるので、従来の小説の枠組みに囚われている、とは言える。そういうの枠組みをぶっ飛ばしてくれるようなものを期待していたりはします(笑)
「ストーリー」と「ドラマ」の概念セット、
良いですねえ。こういう風に分けると
理解しやすい。
私も、「ドラマ」がしっかりしていれば良いと
思うタイプなんだけど、それを一つの物語として
つくる場合、それぞれの場面の「ドラマ」を
有機的に繋げていくのが難しくて、だから小説を
書くのは大変なんじゃないかと思っています。
世界に整合性が無いのは、個々に文化を持つ為でしょうね。それ故に争いも絶えない。感覚でつながる時代が来れば整合された世界が来るのでしょう。
日本を見ても、文化圏の違いから来る言葉の意味の違いがあり、ある程度の整合は取れても万人に同じ解釈をされるということは有り得ないでしょう。ということは作者(物書き)の人は絶対多数の人に向けて理解されるよう文章を作成しているって事ですかね?う?ん物書きって難しい職業ですねぇ。
>U爺さん
いや、僕が世界の整合性について言ったのは、「我々が持つ物語はストーリー主体ではなくドラマ主体だから整合性を必要としていない」という意味です。
個々の文化、とはすなわち個々の物語でしょう。
物語そのものが違うのだから我々は違う物語の中に棲んでいると。
ただ、同じ物語の中に棲む者であっても、整合性はない。
と、かように考えます。
整合性がなくても、違う物語に棲んでいても、我々は世界の冗長性の中で行き当たりばったりに生きていたり死んでいったりしてるわけです。
我々が整合性のように感じているのはランダムネスの中のソリトン波みたいなものではないかと。