儀式とは演劇と見つけたり。
演劇だからこそ、人は役割を演じるのである。
タイトルつけない日があったっていい、というタイトル。
そのセレモニー全体が目指す、無言だけれど圧倒的ななにかに押し流されてしまうのだろう。……う?ん、それって直裁的ではないかもしれないが、間接的なマイコン(マインドコントロール)じゃん。
儀式とはまさしくマインドコントロール以外にありえない。
演劇がマインドコントロールであるからだ。
つまり演じることによって受け手の情緒を操作しようと言う行為そのものだからだ。
この場合、演じる者もまた観覧している側でもある。
もちろん、儀式であるからには宗教的側面が立ち現れることは言うまでも無い。
……
だから、メディアとはそれが神の名を示している通り、宗教的側面を持っている。
ニュースとなって広く世間の耳目を集める途端、そこは儀式/演劇空間となるのだ。
なぜなら我々は理性で行動しているのではなく、迷信を動力としているからだ。
残念なことに、それは社会全てを飲み込んでいて、それに異議を唱えるものさえも「トリックスター」と言う名の道化として扱われるのである。
「カルト」の名はごく少数の隔離された集団を指し示す言葉だが、このカルトが社会の母集団となったとき、カルトの教義は「常識」となるのである。
おお、まるでリレー論文だ。いいぞ、その調子。
人生も演劇?かも。
いかに役者になって、
人生の舞台で自分を演じるか。(^^)