私はハンドルを使っていた期間が長いので、ハンドルも第二の名前となっている。
だから、net上でハンドルを使っていない自分には何か違和感を覚える。
私はハンドルを使っていた期間が長いので、ハンドルも第二の名前となっている。
だから、net上でハンドルを使っていない自分には何か違和感を覚える。
例えば芸名なんてのはどうだろう。
冴えない田舎娘、ノーマ・ジーンはマリリン・モンローを芸名にし、有名女優となる。
ノーマはいつも好奇の目で追いかけられるのに苦しむ。
カメラが無い時には彼女はおどおどしたただの田舎娘だ。地味な格好をしていれば、化粧なんかしなくても誰も彼女が「あの、マリリン」だなんて気づかない。
誰もが彼女に気づかず通り過ぎて行った時、ノーマは例のモンローウォークをしてみせる。
たちまち人垣に囲まれる彼女。
せっかく誰にも気づかれなかったのに、どうして、と問われると彼女は「あの時はマリリン・モンローになりたかったの」と答えた。
なんてエピソードがあるそうですが。
彼女の本当の名前が「ノーマ・ジーン」なのか「マリリン・モンロー」なのかなんて意味がないと思うんだよね。
私は自分の名前も人の名前もどうでも良い。
一意に決まらなくても、同じ現象が現れていたら同じとみなして良いと思っている。
揖屋芳養南友
他人も書き込めるんでしょうか?
名前には意味が無い
書き込めたのでついでに。名前には意味が無いとはよく聞く話。逆に名は体を表すとは昔から言われてきた言葉。どちらも正しいし、正確ではない。
「名は呪(じゅ)である。名によって人は呪を受けている。」夢枕漠の「陰陽師」より
イカロスは名工ダイダロスの子供の名前。ギリシャ神話では海に落ちて死んでしまい、今では鳥の名になって残っている。その名の歴史は変えられるのだという日本で初めて飛行に成功したのが熱気球イカロス5号。子供の頃に読んだ本なので記憶がかなり薄れている。「俺たちは飛ばすんだ。だからあえて海に落ちたイカロスの名をつける」と言う事だったはず。だから自分にもそれを命名したのだ。
そうしてイカロスは飛び立ち、あきれて見上げる人たちの頭の上をアポロンが曳く大要めがけトン行くのでした
誰もがいくつもの名前を持っているものです。
イカロスとか、つだゆういちとかイカとか課長とかお父さんとか。
その名前のひとつひとつには意味があって、その意味に関連されているあなたのある部分を説明はしているけれど、あなたそのものを示しているわけではない。
「名前」とはラベルであって本質ではない。
(「言葉」はラベルであって本質ではない。という話もできそうです)
私は名前の件が示すように、あるできごと、ある人物の一意性を問うのにどれほど意味があることなのか、疑っています。
「お父さん」の役割を示す人がいればそれはあなたでなくても良い。
「イカロス」として行動する人がいればそれはあなたでなくても良い。
伝統芸能の人たちが次々と名前を変えるように、そして代々の名前を受け継ぐように、名前にこそ本質があり、それを顕在させるのは誰でも良い、という考えを今一度吟味する必要があるんじゃないか。
特に現代のように通信を介して生活を共有する生き方、プライバシーとは何かを否応無く考えざるを得ない事象が起きている生活の中では。